2016年1月14日木曜日

中学生の職場体験プログラムを通じて・・・③

Q:「なぜ医師になったのですか?」
A:私の父は元々高校教師でした。姉弟は3人でした。子供の頃、一人が風邪になると姉弟みんなで鼻を垂らし、熱を出して近所のI先生のところに行きました。そのおじいちゃん先生は(きっと60歳くらいかな)僕の家の3軒先に往診していたから、帰りは決まって僕を自転車に乗せ、すぐ上の姉が後ろに乗り、先生自身が自転車を押して家まで送ってくれる、といった昔ながらの町医者でした。
僕が犬にかまれて鼻がとれかっかった時も、すぐ近くの産婦人科の先生のところまで僕を抱えて走ってくれて、そこの産婦人科の先生が急いで止血したのち、その産婦人科の先生の自家用車で外科まで大至急送ってくれました。昭和40年代には今では考えられない町医者が沢山いました。僕の最初のかっこいい大人はI先生でした。僕の鼻にはその思い出の跡が今でもあります。

その後成長し、20歳の時に「俺、将来どうするんだ。何になりたいのか?」と真剣に考えました。「どんな時代でも、海外に行っても通用する仕事に就きたい。医者になりたい。そう、I先生みたいになりたい。」と思い、父に相談したところ、「自分の人生好きな事して社会に役立て」と言ってくれました。
父は教師でしたから、子供の頃から、宿題をせずに遊びに行ったりすると酷く怒り、「子どもに残せる財産は教育だけだ」と、また、「お金は使えば無くなるけれど、知識は学べば学ぶほど貯まる」と言っていたものです。
当然国立の受験をしようと思って勉強していましたが、父が度胸試しに私大もいくつか受けとけというので、受験しました。最初に合格発表があったのが東邦大学で、父に合格を報告すると「縁があったのだからそこに行け、地方の国立に行っても様子が見えないから心配だ」と言い、僕が「私学は入学金等相当だよ、親父?」と言うと、「心配するな、丁度退職金があるから行け」と言ってくれました。大変ありがたく思い、また、それを承諾してくれた母にも感謝しました。少しでも学費の足しになるよう、途中奨学金を頂いたり、家庭教師のアルバイトを幾つもしました。

医学部の卒業間近になって、何科に行くとなったとき悩みました。当時は今のような総合診療科がなかったので、専門科に行けば専門科だけという時代でした。
その進路でも決めきれず、欲張りな僕は病院管理学の大学院に入学しました。病院のありとあらゆる部門へ行き、時に役所に出向き、また、病院建築の建設会社に病院の会計事務所や、途上国の実情の視察にも行きました。医療評価や医療経済もわからないながらも勉強しました。その後、幾つかの雇われの病院長を経験しましたが、僕のヒーローのI先生にはなれませんでした。患者さんがいて初めて医者なのです。業者や役所や労働者との交渉は大切な仕事ですが、医者の本分は患者さんとの対話だと思いました。


平成16年に「あなたのひまわりになりたくて」ひまわりクリニックをつくりました。
最初は今の場所から300m離れた上り坂の途中の13坪の小さなクリニックで、看護師さんも1人しかいませんでした。日々、患者さんに育てられ支えられ、患者さんと縁が沢山できて、今から2年前に今の宮崎交差点に新築移転しました。土地を紹介していただいた不動産屋さんも、大工さんも、駐車場のアスファルトを引いていただいた方も、みんな患者さんです。


・・・次回へ続く。